九龍城砦的石窯全貌

日々雑感
休業してから19日が立ちました。
来週から工房の壊しが始まり、やっとスタート地点か。。。という印象の今週末。
登山口からすぐに登りになる山もあるけれど、今回は違うようです。「よし!登るぞ」と意気込んでも何時間も、時には数日間も登りが出てこない山もあって、どうもそれ、みたいです。
だとしたら、登り始めちゃえば意外とスムースか?と自分の仕事効率に期待したいこの頃です。

既に稼働している工房をカラにしないと工事が出来ないので、機材の分解や移動、普段できないメンテナンスをしながらの引っ越し作業。その合間に酵母を継ぐたび、早くパン焼きたいな、と思いながらの壁材選びにペンキの発注、丸ノコ作業にヤスリがけ。幸いにやることが多くて「パン焼きシック」のギリギリ手前でとどまっています。考えることがたくさんあるというのは幸せな事なのでしょうね。

一つの作業に没頭しているときは余計なことも考えないので捗るのですが、一度作業が終わると、次に何を、どこまで進めるべきか、どの材料を使おうか、と考える時間が必要になって、この間の効率が下がってしまう。考えすぎかな、と思うと同時に、いやいや、ここでしっかり考えすぎておかないと、あとあと面倒になる、とも思えてきて、そんな思考遊びをしてみました。

考えすぎのすぎ問題

「考えすぎはよくない」ともいいます。ある側面ではとても共感できる言葉です。でも、どこからが「すぎ」なのかがとても難しい問題です。いわゆる「引きどころ」がどこにあるかは、もはや永遠の課題といえるほど難しい。ではこの難しさはどこから来るのかと考えてみたら、「すぎ」に正解が無いことと関係しているように思えてきました。
つまり、「すぎ(too much)」を測る単位、つまり基準が無いということです。
「それは考えすぎだよ」と言う場合、意味合いとしては「ネガティブに考えすぎだ」という忠告でしょう。
たくさん考えること、色々な可能性を考え抜く行為自体は、とてもポジティブな思考に思えます。

基準を作るという発想

偉大な人はいるもので、フランスの建築家ル・コルビュジュエは人体の寸法に合わせた空間をデザインする際の基準として、「モデュロール」をという比率を作ってしまいました。その後、日本人基準として丹下健三が作った「丹下モデュロール」があります。最近は工房と売り場の動線について考える機会が多かったので、たまたま建築家が出てきたのかもしれません。
自分の工房の設計に限っては、自分の身長で動き回ればどうにかなりそうですが、都庁舎なんか作るのだから、日本人の規準をつくることは非常に合理的だったのでしょう。それでも、この比率で作られた空間が多くの日本人に快適かどうかは、賛否両論の様で面白いところです。

やっぱり「すぎ」てみる

考えすぎの先に、絶対に光はあるはずだけれど、どれだけ先にあるのかが隠されていて、だからこそ、「すぎ」た者しか見えないんだ。と信じて「すぎる」のもよし。
先の「モデュロール」を作る際に参考にしたといわれているレオナルドダヴィンチの人体図もまた、考えすぎのすぎの先にあった光だったことでしょう。
「すぎ」が問題になる場面は、イメージの中で完結してしまって、ある程度の結果を頭だけで出してしまうことかもしれません。

大きなプロジェクトも、小さなプロジェクトも、どちらも小さな決断の繰り返しで達成されるものです。
その小さな決断もまた、考え抜かれた選択や考察から下されていて、もはや「すぎ」だらけの中で物事は育まれている実感です。事実、考えすぎてみることから生まれるアイデアや決断はたくさんあります。それが何であっても、前回の記事で書いてみた様に「どちらをえらぶべきだったか」はきっと分からない。ならば、勇気を持って?「すぎ」てみるのも一考かもしれません。

すでに「すぎ」ている?

工房の面積に対して再生中の窯があまりに大き「すぎ」るため、人が通る動線の確保にずいぶんと考えすぎてみました。
「モデュロール」で寸法を割り出したらきっと「もっと小さな窯にしましょう!」という答えが導かれたことでしょう。そういう意味では、基準を使わない決断もまた、隠された光をたのしめる方法の一つかもしれません。


今週の本題


現在、目いっぱいの情熱と愛情を受けながら、再生の期待に応えようとしてくれている「窯」です。
皆さんと楽しむためのパンを焼いてくれる相棒の裸の姿です。PROJECT"B"の主役であり、"B"=Baking(焼き)の要(かなめ)。とても大事な道具です。

工房を壊さないと移設できない、重量約2トン。
燃焼の格を担うスウェーデン製のバーナーはすでに動かず生産終了。ドイツから代わりのバーナーの到着を待つ姿は、圧倒的な迫力です。

機関車なのかそれともハウルの城なのか、動き出しそうな異常な雰囲気を醸しながら、しばらく焼成室の扉さえ開かせてくれず、かたくなに口を閉ざしていました。

ルイスサリヴァンの言葉。
「Form Follows Function (形態は機能に従う)」

柳宗理の言葉。
「本当の美は生まれるもの。作りだすものではない。」

30年近く経過している姿から、そんな言葉が思い起こされました。
そして、もう一つ、どうしても重なる景色がこちら。



美と評することは一般に許されないかもしれません。ぎりぎりの「必要な物の全て」だけで構築された九龍城砦(くうろんじょうさい)。必要な物がないところから、必要な物を無秩序にどんどん足していった姿は、まさにカオスではあるけれど、どこか機能美を感じてしまう。建物全体が荒く息をしている生き物に見えてしまうのは、無秩序からある種の秩序が生まれているからかもしれない。

「機能重視」という言葉は「いい意味」に取られがちですが、景観や美しさに豊かさを感じることも人の大事な欲求なので、あながちポジティブな言葉ではないかもしれません。それでも機能重視の鉄の塊であるまだボロボロの窯に美しさを感じるかどうかは、その構造に作り手の思考と想いを感じるかどうかなのでしょう。

本題の窯が今にも走りそうに見えたのは、後ろに回ると見える太い蒸気管が豪快に構造体を取り巻いていて、余った蒸気は天井から豪快にモクモクと吐き出される仕様になっていたからでした。




3本の配管は窯の底で水が熱せられて蒸気に変わり、それを各、部屋に運ぶ役割を担っています。外殻は厚い鉄板で覆われていて、焼成室内は石床となっていて、その蓄熱性能の高さは構造から察しがつきました。1回目の記事で書いた、オーブンに求める「3条件」がこちら。
  1. 豊富なストーリ性
  2. 飛び抜けた蓄熱性
  3. 強力な個性
とても期待できそうなのですが、3に関してはちょっと怖いほどなのです。実はこの窯、日本ではほとんど使われていないガス式オーブン。つまり「ガスの石釜」ということになります。全部が石で作られているマキ燃料のマキガマよりモダンだけれど、充分レトロでビンテージな釜。
実は石窯の定義というものがヨーロッパにはきちんとあるので、これはその定義に従って石釜と呼んでいます。

研ぎ澄まされた結果の「削ぎ済まされた感」

日本のパン屋さんの9割以上が電気オーブンといわれるなかで、たまたま縁があったのはガス窯でした。熱源が違うだけならともかく、機能面でもいろいろと個性が強すぎる窯なので一端をご紹介します。
  1. 点火は常に、3段同時。
  2. 温度は常に、3段同じ。
  3. 温度は数時間下がらない
  4. 予約タイマーなし(早起必須)
  5. 温度計は2段目に1個だけ。
  6. タイマーは一個、しかも消音のベルで聞こえない(パンを見て判断)
一個2キロ以上のパン生地を次々に焼いても、たぶん全部美味しく焼いてくれる。でも、その後で小さなパンを焼こうとしたら、きっと窯に食べられちゃって真っ黒になる。温度が下がるまで待てばガスを止めても蓄熱が良いので数時間が無駄になりそう。

温度計がないとか、タイマーがないのは、「どうせパンの表情をみて判断するでしょ?」という本音からの排除でしょう。最新電気窯の温度計も所詮は目安に過ぎず、扉を開ければ温度は下がり、パンを入れる数でその下がり方まで違ってきます。置く場所によっても、焼け具合は違うわけで、最後はパンを個別に観察して「完成」を判断するわけです。だからって、「いらないっしょ?」っていう潔さには心地良ささえ感じます。

三段同時運転のみ、三段同じ温度のみという仕様だけは、柔軟性が欲しいところでした。テストで1個焼くときも全段全力運転はあまりにもムダです。
無骨なまでに必要な機能に特化させていて、その考え方や構造からは、「研ぎ澄まされた」という言葉よりも、「削ぎ済まされた」と評したい程。

引き続きサビを落とし、部品を交換し、無い部品は作りながら、再生プロジェクトが進行します。
最初に焼くパンがどんなパンになるのか想像が出来ませんが、大きなパンを焼いて、皆さんとむしゃむしゃやりたいな、などと妄想中です。

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