あきらめる力で臼を設置

日々雑感
新たな解体が始まろうとしています。
「窯を入れ替える」というたったそれだけの「1石」が及ぼす波紋は想像を遥かに超えていて、(そんな窯を選ぶからではありますが)破壊と再生をあと何度繰り返せば平和が訪れるのか不安なこの頃です。1つが変わればその変化が隣に影響し、その影響をさらに隣が受けて、徐々に状況が大きく変わっていく、もしくは調和していく。そんな連鎖現象が小さな工房で連日起こっています。

困った事に、どこか1か所が落ち着くとその部分的な調和はかえって違和感を生み、その違和感が「あらたな一石」となってまた連鎖現象が始まってしまう。石臼置場だけが先に完璧に仕上がった事で生じる全体の不調和・違和感が「これでいいのか?」と不安を刺激してくる。これでよし!次いこう!という決断力を磨けば波紋は食い止められるのでしょうか。

あきらめる力

前回「新しさ」が「忘れる能力」に支えられている話しをしましたが、決断力もまた捨てる力に支えられている気がするのです。迷いが生じた時に「これでよし!」と言えるか否か。気持ちの上では「みなぎる自信」によって決断を下したいけれど、実際には「これ以上はやめておこう」という身を引く能力、「可能性を捨てる力」によって決断する場面は非常に多い。言葉は「言の刃」でもあってとてもキツイ道具だから「あなたは可能性を捨てた」とか「あなたはあきらめた」などと言われると心外ではあるけれど、この「あきらめる力」こそが決断力で、実は「豊かで前向きな精神」から生まれた言葉の様なのです。

元来「あきらめる」とは仏教用語で「明らかに見極める」の意だそうです。
今ここに出来た「石臼置き場」を「完成」とする事が後に全体の調和につながるのか、それとも、不調和につながるのかを「あきらめ」ないと先に進めないわけです。石臼置き場から手前は途端に20cmほど下がって床になります。そのため、一度設置したら、手前に引き出すことは不可能に近い。今回改めて手入れをした背中側にあるモーターの配線、回転数を制御する改造も事情により試運転が出来ないまま設置をせざるを得ず、工房全体が完成した後で「石臼の動きが変だ」となっても手前に引き出せないので手入れが困難なことだけは「あきらか」です。

こういう状況をも打破できる「あきらめる力」とは、実に逞しいものだとおもうと同時に、どうしたら手に入るのか悩ましい限り。そうか、瞑想でもしてみよう!なんて安易に目を閉じれば作業の行程表がきれいに浮かんできて迷想。あれを注文しとかなきゃ!とか運送屋さんを探さなきゃ!とか、壁材を決めなきゃ、とまぁ良く邪念の湧き出ること。

偉人の視点

「決断力」と「あきらめる力」。言葉のイメージからは、後者の方が洗練された、卓越した力に思えてきます。決断という言葉の後ろには責任の匂いがします。あきらかに見極める行為には、責任の匂いすらせず、どこか清清しさすら感じる。あきらめる力を凡人が手に入れようとするとき、それは「自信」から得られるものなのか、「自信の無さ」からなのか、そもそも別の何かからなのかすらわかりません。

窯を入れ替えてパンの質をあげるための工房改修の、ほんの一部分に過ぎない「石臼置き場新設」から始まった「これでいいのか」問題。大きな理想(目的)を達成するためにどうアプローチしていくか、という方法論を巡っては世界中で各時代を通して様々な試みが続けられている、まさに世界の大問題。世界に影響を与えてきた人々がどの様な言葉と意思によって「大きな目的」に挑んだのか、ちょっとだけ覗いてみます。妄想と邪念だらけの瞑想中に思い出された順番に。
  • ガンジー
「あなたが変わりなさい。世界で自分が見たいものに」

  • キング牧師
「疑わず、最初の一段を上りなさい」

  • ゲーテ
「人間はより高きものに似よ!実際の振る舞いがそれを信じさせるようであれ」

  • テレサ
「世界平和のために何が出来るかって?家に帰って家族を愛しなさい」

妄想瞑想で落とされる

何を迷っているんだ!とガンジーさんに力強く叱咤激励されたあと、「"You" have a dream!」とキングさんがユーモラスに登場。詩人ゲーテに「今が理想であるかのように振舞っちゃいな」と背中を押されてちょっぴり勇気が沸いてきた刹那、マザーテレサに言われました。「大事なのは愛です。石臼置き場はどうでもいい問題です!」と。

いやぁ、確かに、、でもちょっと話が壮大すぎるんですけれども、、と口答えをする隙も見つからない程の圧倒的なマザーの平和論。偉人のアドバイスでは工房の小さな問題は解決できない。やっぱりこういう具体的な問題は偉人にではなく「知識人」にこそ頼るべきだとひらめいたら、その様子を見ていた世紀の大天才、アインシュタインが口を開きました。

「知識人は問題を解決するけど、天才は問題を未然に防ぐんだよ」

・・・やられました、。そっか、そもそも問題を未然に防げなかったのが原因か?!
やっぱり偉人の皆さんはスゴすぎて参考になりません、と感服したところで妄想瞑想は終了。今週も未然に防げなかった問題が山積みの工房から、石臼を机にして凡人が配信します。

今週の本題(長い前置きを反省して短め)


先週新しく取り込んだスペースの壁を塗りました。パテを3回塗りしたにもかかわらず、完璧には行きませんでした。調色してもらったペンキの量では仕様書の面積の半分くらいしか塗れず、何処を塗らず、どう仕上げるか、を考えながらのペンキ塗り。ペンキ塗りくらいは最後まで問題なく終るだろうと思ったのですが、作業の度に毎度変更点やアクシデントが出てきます。天才ならばきっと未然に、、、、と悔やまれます。

結局、床から70cm程はペンキを塗らず、イギリスから取り寄せた壁紙を貼ってアクシデントを楽しむこと数時間、ようやく石臼置き場の完成です。用意したペンキの量はあえて塗り残すことでギリギリ間に合わせました。壁紙部分は残念ながら石臼でだいぶ隠れてしまいそうですが、この空間からベースベーカリーの小麦粉が生まれると思うと、やはり楽しみです。


午後の時点でまだ設置に踏み切れず、あきらめる作業の真っ最中。このスペース以外の床を全て20cmほど落とすことで天井高を確保し、背の高い窯を迎える準備を進める予定です。つまり残りの床は全部剥がさないといけません。だんだん手の豆も成長してきて何屋さんなんだか分からなくなってきましたが、メールやFacebook、ツイッターなどに寄せられるメッセージに励まされながら酵母を大事に継ぎつつ、パン屋なのだだということを忘れないように務めています。皆さん、本当にありがとうございます。

ようやく設置された石臼全景

夜になってようやく「あきらめ」がついて設置した石臼。厚い石と無垢材で出来ているのでとんでもない重さ。おまけに重量バランスが偏っているため力任せに押しても動かず、下手すれば倒れそうになる。写真で言うと右半分、しかもその後ろ側にモーターがついているので最も重くなっていて、左半分は極端に軽い(それでも70kg程ですが)のです。慎重に、でも全力で片側を持ち上げて数センチ動かしたら、反対側に自分が移動して同じように数センチ動かすことの連続。持ち手もなく、持っちゃいけない場所も多い巨体の人力移動はかなり大変で今日は筋肉痛の三日目です。この石臼は「パン焼きをあきらめる瞬間」で紹介した「大きいやつ」で長さ170cm強。まるで家具です。


モーツァルト、シューベルト、マーラー、ワーグナーなど有名な作曲家の故郷オーストリアで作られた総松造りで、未だに木の香りがします。もしもお披露目会が出来たら是非触ってみてください。ぴったり、ジャスト、ギリギリの寸法で収まって本当にホッとしました。もう少し余裕がほしいくらいですが「窯」のためにスペースをなるべく残さないといけないので贅沢は言えません。あとはやり直した配線と改造で無事に動くかどうか、試運転はまだ先になりそうです。

工房内は間柱(まばしら)や胴縁(どうぶち)がむき出しの壁もあって、さらにこれから壊さないとならない壁もあります。つくづく感じる事は、石臼をココに移動したいわけでも、壁を壊したいわけでもなく、床や天井を剥がしたいわけでもないのに、そうしないと設置できない「窯」の存在感。もしもこれで現在同時進行中の窯の再生が出来なければ、いや、「あきらめる」事態にでもなれば、、、、一緒に笑ってくれる人を必死に募集したいと思います。その時は心のケアの程、どうぞ宜しくお願い致します。

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